民藝との関わり|STORY

民藝と岡山

日本で、のろしを挙げた民藝運動は、大正15年に柳宗悦師によって世界で初めて雑器の美が見出され、かつこれを理論的に解明された「工藝美論」の展開によって、これらの優れた雑器のいわゆる、民衆のてになる、民衆の用いる工藝品を民藝品と唱えるに至った時点からである。その直後、東京に日本民藝協会が組織され、続いてその具体的な運動の一環として日本民藝館が設立されたのである。

かくして、運動の本拠を中央に置き、日本中の隠れた新古の民藝品の調査と蒐集とが精力的に続けられ、これと併せて出版物によって、この名も無き工人達のつくった美しいものの紹介と、その技術の貴重さとを説き、併せて人々の平常の暮らしの重要な文化的源泉として、この健やかな美に満ちあふれた物々を各家々に送ることに努力されたのである。

終戦を迎え、大方の文化的活動が停止状態に或る中、民藝運動は即座に立ち上がり、それまでは中央よりの働きかけが主であったのが、終戦を機に、それまで培われていた各地方の細胞が次々と活発に働きはじめた。外地で終戦を迎えた筆者(故杉岡泰)も昭和21年に岡山に帰郷、倉敷民藝館初代館長 故外村吉之介師、大原美術館 故大原総一郎氏に合流、天満屋百貨店の故伊原木伍朗氏の理解或る奉仕により、売り場の一角を貸与えられ、普及部門の活動がはじまった。

また、これとやや前後して岡山県民藝協会も発足し、地方民芸館の第一号として倉敷民藝館も設立された。これが岡山県に於ける民藝運動の具体的な活動の第一歩であった。

(弊社創設者 故杉岡泰著書 『有意無為八十余年』より引用)

創設者 杉岡泰 について

明治39年 11月23日岡山県上房郡松山村(現高梁市)に生まれる
大正10年 逸見東洋に師事し彫刻を学ぶ
大正12年 二松学舎入学, 環堵画塾入塾(小室翠雲主宰)南画を学ぶ
大正13年 日本南画院展入選
大正14年 同展連続入選
昭和16年 満州移住協会文化使師として満州(中国東北部)へ渡る
昭和17年 柳宗悦の下で民藝運動に身を転じる
昭和19年 海軍軍属として従軍
昭和22年 岡山県民藝振興株式会社創設 代表取締役
昭和56年 (財)倉敷民藝館常務理事
昭和62年 岡山県民藝協会会長, 日本民藝協会常任理事
平成5年  5月5日永眠